前回はこちら(記事移動のコンポーネントほしいのでそのうち作る。作ったら自動対応できる形で入れておく
まとめ方に手間取ってしまって時間がかかってしまった
「何が書きたいか自分でもわからない」みたいな感じになってしまいなんとなく久しぶりに産みの苦しみに近いものを感じた
というわけで後半。メインテーマとそこに付随して描かれたサブテーマについて
伸ばされた手を取るかの話
端的に言えば、これは奈須きのこ(敬称略)が割と頻繁に書いているテーマでもある。何ならFGOの中でも本編イベント問わず何回か出てきている
シンプルに「自分より優秀な存在があったとき、それを認めることができるのか?」という問題提起である
先述した通り、割と頻繁に奈須きのこはこれを軸にして話を展開する。Fate/stay nightでもやったしFGO2部5章でもやったし、まほよの青崎姉妹のあり方もこれに沿った側面が描かれることが多いし、まあとにかく多い。おそらく奈須きのこの中で常に結論が揺れているというか、絶対的な回答がない……というより、「認めるべきである」が「そこにある嫉妬や怨嗟を見て見ぬふりするのは間違いである」という回答はあったうえで、そのバランスや側面、表出の仕方に差異があるのだと解釈している
では今回のその差異は何だったのかというと、それが「AI」という「種族」を介して、「奉仕」の話になっていたという点である
奉仕精神
もとより、奉仕精神というのは2つの側面で受け入れにくい
「奉仕する側」には求めるものが多く、その上で得られるものが少ないという点
「奉仕される側」には受け入れるための土壌が必要であるという点
前提として、今の世界は奉仕精神が軽んじられる傾向にある。無給ボランティアは否定されがちだし、社会保障は信頼されておらず、マチズモ的感性やネオリベラリズムの台頭による自己救済と自己責任論がまかり通っている
そうでなくとも古くから宗教的な取り組みが行われているのが難しさを物語っている
人類はあらゆる点でこの問題に取り組んでいるが、統治の方法と同じくあるべき姿が見えずにいる問題の一つだというのは否定されないだろう
私は、おそらく今回の話のメインテーマは、この見返りを求めない奉仕精神の肯定と、そしてその精神に対する懐疑的視点を掘り起こし客観的に表現することこそ目的であったと読み取った
種による奉仕
率直に言って、作中のアンソニー・ベックマンなる存在は、AIによる奉仕を認めきれなかった。つまり「AIはなんでそんなことをするのか?」という疑問が解消できなかった
ただこれには妥当といえば妥当であったのも確かで、彼が責められるべきだとは思わない(し、思うべきではない)
例えばの話だが、牛が「なぜこの『ヒト』という種族は我々にこのような住みよい環境を用意するのだろうか?」という疑問を持った場合、その答えは「家畜だから」となる
では、作中の立場でヒトが「なぜこの『AI』という存在は我々にこのような良い環境を用意するのだろうか?」という疑問があった場合、どう答えるべきか
アンソニー・ベックマンは、その回答が理解できなかったという、ただそれだけの話がスタートラインであった
種の丸ごとが人類に益するなど都合が良すぎると思うのも無理はない
彼の無理解は責められるべきかというとそうでもない……というより、いざ今の時代の人間に、自分たちにその疑念が湧く立場になった場合に同じように反応しないほうが難しいと思う。理由は前述のとおりで、人類という種は数千年の歴史を積み上げてなお奉仕精神に対して答えを出せていないわけだからだ。たった100~200年そこらでそれが変わるとも思えない
今回のシナリオにおいて注目すべき点は、シンプルに優秀な個体の奉仕精神を題材として扱ったのではなく、種族の枠組みでそのような奉仕精神を扱ったことにあると考える
わかりきった話だが、前述した例をもとにあげるならば家畜とヒトの関係において、ヒト=畜産家だけを指しており、ヒト=人類全体ではない。基本的に、種という枠組み全体を一般化して扱うことは普通はない(故に家畜との関係においてはヴィーガニズムや菜食主義が出てくるのだが一旦おいておく)
対して作中でのヒトとAIの関係は、実に200年の時間を経て完全に共存するところまで明示していた。一部の共存に対して否定的だった個がいち早くその恩恵を得て延命技術を用いているというのは皮肉が効いている
そしてその一部の個が崩壊と第三世代、つまるところ、次世代の最後のトリガーにもなっているのだが
種と同一視される個
サブテーマかつシナリオ内で重要な役割として示された存在についても触れておきたい
それがアーキタイプ:アースをはじめとする、種と個が同一の存在である。他の例を上げるとBBドバイや殺生院キアラ、ビーストのアンキ・エレシュキガル、アーキタイプ:アースと同等の存在として扱われる謎の代行者ことシエル先輩(スペースシエル)とか。スペースシエルってなんだよ
ともかくこの「種=個」の存在は、種の使命=個の使命という図式が成り立つようになっている
彼ら彼女らの存在は、個のなすべきことを示すことで種のなすべきことを示し、同時に個≠種の存在に対しても同様に種のなすべきことが存在するという導(しるべ)を表すことにあった
このあたりはシナリオ構成の美しさに畏敬の念を感じずにはいられない
若干ながらアーキタイプ:アースやシエル先輩のゲスト感があったが、むしろこのゲストをうまくシナリオ構成の一部に埋め込みつつあくまで他作品のゲストの位置を崩さなかったのは素晴らしいバランスである
閑話休題。シナリオ構成はともかく種のなすべきことを示すというのは、人類(旧人類、そして主人公たち)とAI(新人類、第三世代AI)のやるべきことを示すということである。シナリオ中ではそれが霊長を担う種族ということになっていた
同時に、やるべきことをやりたくない、やらないでおくという選択肢もいくつかの箇所で明確に示されていた。
ジナコが率いていたAIたち(というよりジナコの提示した滅亡案)はそれの延長線だったし、選択肢というより意思が形作られたものだが、ムーン・キャンサーもそれだった
ただこの2つでも違いはしっかりと描かれており、ジナコについて行っていたAIたちは「他にやりたいことがある」という側面が強調されている。すでにしなくて良い「仕事」を行う彼らの姿は、なすべきことを後回しにしてでもやりたいことがあるのだという個体の強い意志が出ているわけで、またシナリオ後半で彼らが肯定的に描かれていたところからも個の意識や意思を作者が肯定的に捉えていることがよく分かる(作家やライターというクリエイティブな仕事も他の仕事に比べれば同じような側面があるというのも理由にあるだろうが)
対して、ムーン・キャンサーはシナリオ中でも倒すべき敵として描かれていたことから明確なように、否定すべき考え方・意思だった(完全な余談だが、これらの挙動?から『ムーン・キャンサー』というワードは"Moon Canceler"(ムーン・キャンセラー)の訛ったものではないかと想像している)。ムーン・キャンサーの意識の方向性が「AIを否定したいヒト」と「アーキタイプを否定したいAI」で完全に同じ構造を取っていたこと、そして前者がすでにシナリオ中で愚かしい存在であったと認識されているのもそれに拍車をかけている
とはいえ、しかしまた人類含む霊長の抱える要素としてそのようなネガティブな反応は、容易に切り捨てられない。最初に言った通り、筆者の意識の中に『自分より優秀な存在を認めるべきか』『そこにある嫉妬や羨望を無為に切り捨てるべきか』というテーマの一部に対するように、それらを抽象化するように、ネガティブな感情や意思をあっさりと切り捨てるべきだとは、少なくとも筆者は考えていないようだった。最後に乗り越えるべきであってもそこを簡単に捨てるべきではないと思っているのは明確だった
その証拠に、主人公は今回は自分たちの勝ちだったという認識を持っている。加えて、主人公の選択肢や行動の根源になったものは、自分より優れた存在であるアーキタイプ:アースやシエル先輩、岸波先輩らの差し出した手を取った、あるいはキリシュタリアの押し出そうとした手を否定しなかったという事実に裏打ちされているわけである(そしてもちろん、最後に背中を押した存在もあるわけである)。また、そこに届くまでに宿敵の力を借りるエジソンや、一人でなんとかしようとするプロテア・オルタとそれを止めるBBコスモと、似たような構造を持つ組み合わせがいくつも出てくるのも同様の役割を果たしている
シンプルに、手を伸ばされた側の存在が、素直に手を取ることができる存在が、足を引っ張る存在に、越えられない壁に打ち勝つ
そういう話だったのだというのが、今回のシナリオの最終的な私の理解である