自分流の解釈や読解をまとめておこうと思ったのでこういう記事をやってみる
メインテーマの前部分でちょっと長くなってしまったので前後編で分ける。ゲームも前中後編の三編構成だったしいいよね!
ちなみに当然だけどネタバレを含むのでご注意ください
公式サイト
感想
運営型ゲームへのメリットとして、こういう時勢を強く反映したシナリオを著名な作家に書かせることができるというスタイルは一つのポイントだなぁと思った
ある種の文芸誌的なスタイルというのか(恥ずかしながら文芸誌を読んだことがないので合っているのかわからないが)
AIの能力向上とそれに関わるいくつもの論点を整理しつつ、しかし軸として作家の抱えている別方向の問題提起や思想的な働きが強く出されたシナリオだった
難しいことは一旦抜きにして、スターシステム的なブランドタイトルのシナリオの運び方と、運営型ゲームへのシナリオの提供方法は、作家性を薄め作業的にシナリオを量産するスタイルとは一線を画す高いクオリティが発揮されたのではないだろうか。演出方法もそれを踏まえているのはまさに「古き良きスタイルの継承」だと称賛の言葉を惜しまない。
ちなみにだが、キャラクター的な視点は個人的にあまり持たないのでここでは語らないことにする。早々に白状するが、私はキャラクターに入れ込むタイプではないのでキャラクター解釈的な話はしない
もちろんキャラクターも好きだけどね!完全に一言足りないカルナさんとかかっこよすぎるバーソロミューとか地元民に入れ込んじゃうテノチティトランとかキャラクター性に関する描写もかなり高いレベルだったと思う。先輩たちかっこよかったしはよFate/EXTRA Record発売してほしい
解釈・読解
本題。今回のシナリオにて、一点確実に抑えておかないといけないポイントがあった。いやメインテーマ含むと二点だけど、とりあえず一点絶対に抑えないといけないところがあった
中編まで終わったところで明確に意識して、意図的に描かれているなぁと思っていたのでここにはずっと注目していた
その一点は今回のシナリオの登場人物の一種として描かれたAIについて
(現代の)AIには人間性や人格はない
シナリオ内でのAIは、今の我々(プレイヤー)の世界のAIと唯一にして絶対的な違いがある
それは、AIに人間性・人格が認められている点である
これは明確に作家が引いたラインとして作中でも念押しがされている。単純な空想ではなく、おそらくは作家が、AIが何かしらのポイントに到達するために必要なものがそれだと考えているのだと考えた
そして加えて、現代のAIに人格が宿っていないことを作家は明確に理解していると思われる
現代のAIにおいて、AIは人間性や人格、意図、意識のようなものは持ち合わせていない。そこに例外はない。プロンプトに入力すればそれらしきものが出てくるが、それはあくまでそのような入力に対する統計学的な回答でしかなく、AIそのものの持つものではない。そもそも個の概念もほぼないようなものである
例えば「私に対して恋人のように振る舞って」といえば恋人のように甘い返事を返してくれるが、あくまで「前提」を人間から渡しているだけで、その前提を自分で作り出すことはできない
作中でのAIには個が認められていたが(というより、人間性や人格が認められたため個が認められたと見たほうがおそらく正しい)、現代のAIには個も人格も認められていない。認められていないというのは不正確で、正確に言うなら「ない」といったほうがいい
この違いが大きく強調された、というより、その要素が唯一キャラクターとして重要なキーになっていたAIがいた
それが、砂上船に搭載されていたAI、イライザである
人間性・人格を持たないものの感情
あのAIには、砂上船のガイドには、世代が振られていなかった。人格が認められて「第一世代」とナンバリングされたわけで、作中でも世代が明言されていなかったことと、最後のエジソンの発言から見るに、おそらくあのAIは「人格・人間性が認められる前の時代のAI」であることが推測される(あるいはもしかしたらAIですらないかもしれない)
そうなると、では、あのガイドが持っていたバーソロミューへの意識はどう解釈すべきだろうか
いろんな感想を見たところ、多くのプレイヤーはあれを恋心だと解釈しているようだが、しかしあのガイドには人格がなかったかもしれないわけである
もっとも実際のところ、作中のAIはすでに自己学習が可能な領域(いわゆるシンギュラリティ)に至っていたので、旧式のアルゴリズムも自己学習の末に人格を獲得していた可能性だってある
作中で触れられた通り、人格とは知能レベルとは別の話で、結局そのラインがどこにあるのかは具体的な回答は当然なかった。
プレイヤーが、かのAIが持っていると思った恋心は、はたしてそう思うのが正しかったのかそうでなかったのか、非常に曖昧に書かれている
ただ、現代のAIが似たようなレスポンスを返したとき、そこに人間性を認められるだろうか。間違いなく認められないが、つまりそういう話だったのかもしれないのだ
正直に言うが、これをどう解釈すべきなのか自分の中では結論は出なかった。
先に述べた通り、「恋人のように振る舞って」と前提を入力すればそれっぽい反応は返してくれる。だが、その前提は自分では作り出せない
単純に、奇跡と言ってしまえば簡単ではあるが、この前提を陳腐に済ますだけのロジックとして作家が構築したとは考えたくないというのが私のわがままである
気持ちはわかる……?
この描写と同時に、もう一点この砂上船のAIに関しては重要なセリフ(言伝)があった
「気持ちはわかるがやりすぎです」というバーソロミューからの伝言は、何を示しているのか。境遇に対する同情か、あるいは自分の変化を知らせようと思ったのか
そもそも理解した気持ちはなんのことを指していたのか
正直このワードも何かしらの意味があると思ったのだが(そしてこれもイライザが本来は人間性・人格を認められていないはずのAIであることが関係していると思ったのだが)、いまいちうまく繋がらなかった
ここで言っている気持ちというのはおそらく人間のために尽くす精神を、奉仕精神を指しているのか、それとも人理によるゲームオーバーを嫌がったその精神だろうか
あるいはもっとシンプルに人とともに生きるということだろうか。ならばやり過ぎというのは、人を手伝いすぎということになるのだろうか
だとすれば、ラストスロットに対してだいぶ冷たい印象もあるのだが、どうなのだろうか
言ったとおりだが、まとまらなかった
後編(その2)に続ける
次はメインテーマの話。AIは、はっきり言って副題材だったと思う(ある意味でイドでの現パロ的なものと同類
ただ副題材にしてはとても綺麗にやっていたなぁとも思った。そりゃ奈須きのこだもんな……